広島平和記念公園の慰霊碑や像をエリア別一覧!地図と写真で全てご紹介

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今年もまもなく8月6日が訪れます。

広島では言うまでもなく8月6日は特別な日で、多くの市民が祈りの気持ちを持ってこの日を迎えます。

個人的なことを言わせていただければ、私も、母が直接ではありませんが被爆しています(翌日の入市被爆)。

当時母は爆心地から2kmのところに勤めていたのですが、たまたまその日は具合を悪くして仕事を休み、中心部から離れた実家にいたそうです。そのおかげで母は助かり、その後私が生まれています。

一歩違えば私も存在していないわけですし、私もいろいろな思いを持って8月6日を迎え、過ごします。

祈りの中心とも言えるここ広島平和記念公園には、原爆ドームや平和記念資料館ほか主要な施設もありますが、同時に数多くの慰霊碑、慰霊塔、慰霊の像があります。

この記事では、これら公園内の慰霊碑、慰霊塔、慰霊の像などを地図と写真でご紹介します。手描きのマップですので細かい道などは省きましたが、位置は概ねわかっていただけると思います。

また、後半では主な施設の写真と説明文も掲載致します。

(一部文章等が間に合っていないものがありますがすみません。順次入れていきます)

公園内にはたくさんの慰霊碑、慰霊塔があります。どうぞお参りいただければ私も嬉しいです。

目次

広島平和記念公園の全体地図です

まず、全体図をご覧ください。この記事でご紹介する全ての場所になります。1から57まで、丸数字が碑や像の場所です。数が多く範囲も広いので、AからGまで7つのエリアにわけてご紹介します。

なお、地図下のリンクからそれぞれのエリア一覧に飛びます。また、途中の「全体地図に戻る」のボタンでここに戻りますので適宜ご利用ください。

エリアA〜Gの 慰霊碑・慰霊塔・慰霊像をエリア別に一覧でご紹介

A 原爆ドーム 周辺

原爆ドーム(旧 広島県産業奨励館)

1 世界の子どもの平和像
2 鈴木三重吉文学碑 3 旧相生橋碑
4 中国四国土木出張所職員殉職碑
5 広島県地方木材統制株式会社慰霊碑
6 原民喜詩碑(佐藤春夫の詩碑の記)
7 動員学徒慰霊塔 8 広島市道路元標 9 花時計

1 世界の子どもの平和像

2001年8月6日に「高校生平和ゼミナール」のメンバーなど広島の高校生達の手によって建設された碑。手をつないだ二人の大人と、そこに駆け寄っていく子どものイメージです。電車通りを北側に渡った、旧広島市民球場の前にあります。

2 鈴木三重吉文学碑

広島出身の児童文学者であり、文芸誌「赤い鳥」の主宰であった鈴木三重吉の文学碑。彼の胸像とともに、右の台座に「私は永久に夢を持つ。ただ年少時のごとく。ために悩むこと浅きのみ。三重吉」と刻まれています。昭和39年6月、広島文化復興のシンボルとして建てられました。相生橋の東詰めになります。

3 旧相生橋碑

相生橋は昭和7年に架けられた、珍しいT字型の橋です。このT字が上空から見やすいということで、ここが原爆投下の目標とされました。実際の爆心地は300mほど離れた「島病院」上空ですが、相生橋も大きな被害を受けました。橋から少し平和記念公園の緑地に入ったところにあります。

4 中国四国土木出張所職員殉職碑

広島県産業奨励館内に事務所があった建設省(内務省)中国四国土木出張所では、職員93人のうち、殉職者52人負傷者9人という大きな被害を受けました。殉職碑は1947年に木製で建立された後、1954年に自然石で歌碑として取り換えられました。

5 広島県地方木材統制株式会社慰霊碑

広島県地方木材統制株式会社は当時、広島県産業奨励館内に本社があり、職員260名が勤めていました。原爆では役職員100人余りが被爆し殉職しました。慰霊碑は大きな自然石で、表に「慰霊」の大きな文字、裏には碑文が刻まれています。原爆ドームの北東にあります。

6 原民喜詩碑(佐藤春夫の詩碑の記)

詩人・原民喜(はら たみき)は、40歳の時に幟町の生家で被爆しました。その前年に最愛の妻と死別し孤独の中にいた彼ですが、生き残った使命として被爆の惨状を伝える作品を書き続けました。碑の表面には、民喜自筆の詩稿が、裏面には、友人で作家の佐藤春夫直筆の撰文を彫ってあります。

7 動員学徒慰霊塔

第二次大戦中、中学生以上の生徒は学徒動員で勤労奉仕が強制されていました。被爆当日、広島市内で勤労奉仕をしていた国民学校高等科以上の8,200人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。撮影をした日、同じくらいの年齢と思われる高校生たちが碑の前で話を聞いていましたが、皆さん何を思われたでしょう…。

8 広島市道路元標

元安橋の東詰北側、植え込みの中にひっそりとあります。かつてこのあたりは陸上交通の要所であり、広島からの里程(みちのり)はここを起点として測られていたそうです。かつて木柱だった元標は明治22年広島市の市制施行に伴い石柱になり、原爆の時には強い熱波を受けました。その激しい熱で角が欠落しています。

9 花時計

昭和48年6月、平和の願いを込めて公会堂(現・国際会議場)の南側に設置された花時計ですが、その後広島国際会議場の建設に伴い、平成4年5月に現在の元安橋東詰北側に移設されました。植え込みの中にあり、時計板の角度が浅いので、歩く人からは少し時間が読みにくいかなとは思います。

B 原爆の子の像 西側

原爆の子の像

10 平和の時計塔 11 平和の鐘
12 平和の石塚 13 遭難横死者慰霊供養塔
14 原爆供養塔 15 平和の石燈
16 韓国人原爆犠牲者慰霊碑
17 被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)
18 平和乃観音像 19 祈りの像

10 平和の時計塔

昭和42年10月28日に広島鯉城ライオンズクラブが建立寄贈したもの。ひねりが特徴的な高さ20mの鉄柱の上に、人類を象徴する直径2mの球体が置いてあり、3方向に時計がついています。原爆投下時刻である午前8時15分になると、チャイムが響き、世界平和・ノーモアヒロシマを訴えます。

11 平和の鐘

鐘作りの重要無形文化財保持者(人間国宝)香取正彦さんの作品。核兵器も戦争もない平和に共存する世界のシンボルとして設置されました。誰でも撞くことができますが、貴重な鐘なので ⑴力いっぱい撞かない ⑵残響音のあるうちは新たに撞かない の2点が注意事項とされています。

12 平和の石塚

第2次世界大戦後英国で平和の山とされたベン・ネビス山に、広島青年会議所が銘板を送ったことをきっかけに、英フォート・ウィリアム市(スコットランド)とダットレイ市(イングランド)両市から贈られた石塚。広島の7つの川を花こう岩で表わしているデザインです。

13 遭難横死者慰霊供養塔

広島県下の真言宗の信徒の方々が昭和32年に建立した供養塔。原爆供養塔の少し北側、木々の間に建っています。梵字で読めませんが「戦争は人の心の迷いや無知によってが起こるので、真実を知ることで平和が訪れる」という意味の祈りの言葉が書かれているそうです。

14 原爆供養塔

爆心地に近いこの場所には、当時無数の遺体が運ばれ荼毘に付されたそうです。昭和21年、ここに市民の寄付によって仮の供養塔や納骨堂ができた後、昭和30年に広島市が改築して現在の供養塔となりました。内部にある納骨堂には引き取り手のない遺骨約7万柱が納められており、今も遺族探しが行われています。

15 平和の石燈

平和の石燈

昭和30年に茶道裏千家 淡交会広島支部が犠牲者の冥福を祈り建立したもの。「畳の上では主人も客人も平等で差別がない」という意味を込め台石が畳の形になっていて、その上に炉と燈籠があります。毎年8月6日にはこの石燈の前で供茶の会が催され、合掌して献茶奉仕を捧げられています。

16 韓国人原爆犠牲者慰霊碑

当時広島市内には数万人にのぼる朝鮮人がいて被爆したと言われています。犠牲となった同胞の慰霊と再びこの惨事を繰り返さぬ気持ちを込めて、韓国の慰霊碑建立委員会がこの慰霊碑を建立しました。亀を形どった台座と、その上に碑柱、そしてその上には双竜を刻んだ冠が載せられています。

17 被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)

この地にあった大きなお寺・慈仙寺も、建物は全て壊滅、住職ほか全員が亡くなりました。また慈仙寺は国民学校の分教場に利用されていたので、通学していた児童十数人も犠牲になりました。強烈な爆風で境内の墓石の多くが吹き飛ばされてしまった中、この墓は被爆当時の姿のまま残されています。

18 平和乃観音像

かつてこの地には中島本町という町があり、商店街や映画館などで大変賑わっていました。原子爆弾のため町は壊滅、住民もほぼ全滅。戦後も公園に変わったために町そのものが消えてしまいました。平和乃観音像は生き残ったかつての中島本町町民が、無くなった町への惜別の情と犠牲者の慰霊のために建てた像です。

19 祈りの像

祈りの像は昭和35年の建立で、制作は彫刻家の横江嘉澄氏。若い夫婦が子どもを抱いている姿のブロンズ像です。第二次大戦を始め多くの困難に際し国に殉じた方々を慰霊しています。台座の右前には広島出身の詩人・大木惇夫氏の「平和を祈り 御霊を鎮めん」という詩碑があります。

C 原爆死没者慰霊碑とその周辺

原爆死没者慰霊碑

20 平和祈念像(草野心平の詩碑) 21 平和の池
22 平和の泉
23 菩提樹の碑

20 平和祈念像(草野心平の詩碑)

母親とその胸に抱かれトランペットを吹く赤ん坊、三日月がデザインされた像。制作は広島出身の彫刻家・圓鍔(えんつば)勝三氏で「親から子どもへ、きのうよりもあすへ。三日月もやがて満月になる。新しい未来を求めて、平和のラッパを鳴らしたい」との制作意図でした。横には詩人・草野心平氏がこの像に寄せた詩碑があります。

21 平和の池

平和の池は1957年に第5回日本青年会議所会員大会が広島で開催された際の記念事業として、日本青年会議所が建設したもの。原爆死没者慰霊碑の三方を囲み、碑が浮かび上がるような設計です。1964年に「平和の灯火」が設置された際に池も拡張され、現在幅17m長さ70mとなっています。

22 平和の泉

平和の泉は高さ1m、幅4mの大谷石の壁です。左端に陶でできたライオンがいますが、その横にあるボタンを押すと口から水が流れるようになっています。水は旅行中の人が実際に飲めるという目的と、原爆の時に多くの方が水を求めて苦しんだことを忘れないという意味が込められています。

23 菩提樹の碑

広島市の資料を見ても詳細がわからないのですが、1959年2⽉6⽇に濱⽥頓蔵という方が原爆犠牲者を慰霊するため菩提樹の木を植樹され、その際に建立された碑のようです。「原爆犠牲者の霊にこの菩提樹を捧ぐ」と刻んであります。撮影した時にだいぶ見たのですが、どれがその菩提樹の木かよくわかりませんでした。この写真で碑の後方、国旗掲揚台のそばの木かな・・と思うのですが・・)

菩提樹の碑と木

D 広島平和記念資料館本館・広島国際会議場とその周辺

国際会議場

24 義勇隊の碑 25 広島二中原爆慰霊碑
26 広島市商・造船工業学校慰霊碑
27 慈母の像
28 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
29 平和の像「若葉」(湯川秀樹詩碑)
30 友愛碑  31 祈りの泉 
32 嵐の中の母子像

24 義勇隊の碑

昭和20年、義勇兵役法のもと15歳から60歳までの男子と17歳から40歳までの女子が「義勇隊」とされて、建物疎開作業などにあたりました。原爆投下時、中島新町付近で作業をしていた川内村の義勇隊200人は全員が死亡、中でも温井地区は180人の犠牲者を出しました。被爆の惨状と義勇隊員の尊い犠牲を語り継ぎ、平和の尊さを訴えるため、温井地区の遺族一同が建立した碑です。

25 広島二中原爆慰霊碑

旧広島第二中学校(現在の県立広島観音高校)の1年生321人と教員4人が、中島新町で建物疎開作業に従事していた際に被爆。爆心地から600mで全員がほぼ即死だったようです。全員の名前が裏側に刻まれています。また、この碑の横に昭和28年8月6日建立の「追悼歌碑」が建てられています。

26 広島市商・造船工業学校慰霊碑

広島市立商業学校(現在の広島市立商業高校)は、戦争末期に国策で市立造船工業学校に転換させられました。被爆当時、爆心地から500m、材木町誓願寺付近で建物疎開作業をしていた1年生195人と職員5人は、途中で病院に行った1人を除き全員が亡くなりました。生徒・職員の冥福を祈り、悲劇を繰り返さないことを誓うために建てられた碑です。

27 慈母の像

慈母の像は、広島の老舗玩具店「マルタカ子供百貨店」を経営していた高ノブさんが昭和36年に独力で建立されたもの。原爆で夫と子供を亡くした高さんは、その悲しみと悲劇を忘れないようにと、元々お店のあったこの場所に建立されました。平和公園からは少し離れた場所で、静かにたたずんでいらっしゃる観音様です。

28 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

戦争が激しくなり、初等科3年(現在の小学3年)以上の子どもは強制的に疎開させられた中、残った1年生2年生の子どもと高等科の生徒推定2,000人、教師推定200人が犠牲になりました。ぐったりとした子どもとそれを抱き自らも被爆した女性教師を描いたこの像は、見る人の心を打ちます。銘文として被爆歌人正田篠枝さんの短歌も刻まれています。

29 平和の像「若葉」(湯川秀樹詩碑)

広島出身の彫刻家・圓鍔勝三氏の作で、少女と見上げる子鹿を描いた瑞々しい作品です。湯川秀樹博士の銘「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」が刻まれています。まがつびとは災いを起こす神。博士は原爆について科学者としての自らの責任を感じておられたそうです。

30 友愛碑

友愛碑は昭和40年、日本損害保険協会広島地方委員会が建立したもので、作者は辻晉堂氏。多くの損害保険会社の社員も原爆の犠牲になっており、彼らの慰霊と平和を希求する全世界の人びとの愛と良心を込めた作品です。彫刻の十字の形は、東西南北の人間が手をつないでいる姿を表現したものです。

30 祈りの泉

祈りの泉は平和記念資料館本館の南側の広場にある大きな噴水池です。今は平和公園全体のシンボルの一つとなっていますが、被爆した方々が口々に「水を、水を」と言って亡くなられたため、その供養として昭和33年に設置されたものです。東西27m 南北19mの円形で、水の高さは約4mとなります。

31 嵐の中の母子像

の中、赤ん坊を抱き子どもを背負い、強く前に進もうとする母を描いた、本郷新氏の作品です。昭和34年 第5回原水爆禁止世界大会の際に、原水爆禁止日本協議会から広島市長に贈られた石膏像が原型で、その後広島市婦人会連合会の努力でブロンズ像となりました。母親の強い愛に市民の平和の願いが重なります。

E 広島平和記念資料館東館 周辺

広島平和記念資料館東館

33 旧天神町北組慰霊碑 34 材木町跡碑
35 被爆したハマユウ 36 峠三吉詩碑
37 全損保の碑 38 被爆したアオギリ
39 ローマ法王平和アピール碑
40 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計
41 ノーマン・カズンズ氏記念碑
42 マルセル・ジュノー博士記念碑
43 バーバラ・レイノルズ氏記念碑
44 平和記念ポスト 45 平和の塔
46 広島市立高等女学校原爆慰霊碑
47 旧天神町南組慰霊碑

33 旧天神町北組慰霊碑

当時、元安川の西側には川に沿って縦に長く「天神町」があり、新橋(現在の平和大橋)あたりを境に「北組」と「南組」に分かれていました。北には多数の商店や医院が、南には公設市場やお寺があり、賑わった町でした。天神町は爆心地に極めて近く、完全に消滅してしまいました。天神町北組は現在の平和公園の中になります。この碑は北組の亡くなった方々の名前を刻んだものです。

34 材木町跡碑

材木町跡碑

天神町の西隣にあったのが材木町。ここも幕末から昭和初期にかけて大変栄えたところでした。材木問屋がありお寺もあり、のどかな下町風情の町。ですがここも爆心地からわずか500m以内で一瞬に壊滅、多くの方が犠牲となりました。この地も戦後平和記念公園となったために町名が消え、場所を示す碑だけが残っています。

35 被爆したハマユウ

爆心地から2200メートル離れた旧広島女子商業高校で被爆したインドハマユウ。被爆から1か月後、焼け焦げた球根から新しい葉が出ていることを、広島の兵舎で兵舎長をしていた元陸軍兵士が見つけました。彼はそれを神奈川県の鎌倉に持ち帰り育て、その株が現在日本で6か所に分かれて育てられています。昭和44年に平和記念公園に移植されたのがこの被爆ハマユウです。

36 峠三吉詩碑

28歳のとき、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆した詩人の峠三吉。昭和25年、朝鮮戦争における米トルーマン大統領の原爆使用の可能性発言に触発された彼は、『原爆詩集』をまとめる決意をします。「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まるこの詩は原爆詩集の序として書かれたものであまりにも有名です。『にんげんをかえせ』という題でも知られています。

37 全損保の碑

全損保の碑

当時広島市内には14の保険会社があり、約200名が働いていましたが、内89人が犠牲となりました。その後、広島の全損保労働組合が全国の仲間へ募金を呼びかけ、昭和40年に建立したのがこの碑です。「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」という碑文は、被爆者である保険会社の社員の作です。

38 被爆したアオギリ

被爆したアオギリ

爆心地から約1.3km離れた中区東白島町の広島逓信局の庁舎(旧中国郵政局)に4本のアオギリの木がありました。被爆でこの内1本は焼けましたが、残りは枯れ木同然でしたがなんとか生きていました。翌年芽吹き、人々に勇気を与えたアオギリでしたが、それが中国郵政局の建て替えに伴って、現在の場所に移されたものです。

39 ローマ法王平和アピール碑

昭和56年に広島を訪れたヨハネ・パウロ二世は、平和記念公園で開催された歓迎の集いで、核兵器廃絶を訴えた「平和アピール」を行い、多くの人に感銘を与えました。その後このアピールを形にしたいと、ローマ法王平和アピール碑建立委員会が結成されて、碑は2年後の昭和58年に完成、平和記念館1階ロビーに設置されました。今回取材時に平和記念館に入っていないので外から(裏側)の写真になってしまいますが、またあらためて撮影し直しますのですみません。

40 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計

朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計

昭和34年、在日朝鮮人で帰国を希望する人が帰れるようにする協定が、赤十字を通じて昭和34年に締結されました。それに伴い広島県からも、同年12月に第2船で56名、第3船で23名の人が帰国しました。この時計は、帰国した人たちを中心に「朝・日友好のしるしを日本の土地に残そう」と建設され、広島市に寄贈されたものです。

41 ノーマン・カズンズ氏記念碑

ノーマン・カズンズ氏記念碑

ノーマン・カズンズ氏はアメリカの文芸雑誌の編集長で、昭和24年8月に広島を訪れ、レポート「4年後のヒロシマ」を発表しました。そこで彼が訴えた、善意のアメリカ人が原爆で親を失った子どもたちを支える「精神養子」という考え方は実現し、約500人の子どもたちが援助を受けることができました。さらに彼は被爆した女性がアメリカで治療が受けられるようにも尽力し、それらの功績から後に広島市特別名誉市民の称号が贈られました。

42 マルセル・ジュノー博士記念碑

マルセル・ジュノー博士記念碑

マルセル・ジュノー博士はスイスの医学者で、昭和20年8月、赤十字国際委員会の代表として来日しました。連合軍の捕虜の調査が目的でしたが、広島での原爆の惨状を知るや、すぐにGHQ(連合国最高司令官総司令部)に救援を依頼、医薬品を携えて広島に入りました。人道的な立場で被爆者の救護治療に尽力した博士の功績を讃え、碑が建立されたものです。

43 バーバラ・レイノルズ氏記念碑

バーバラ・レイノルズ氏はアメリカの平和運動家で、昭和26年、原爆傷害調査委員会の研究員だった夫とともに広島を訪れた際に、その原爆被害について知りました。その後1958年のアメリカの水爆実験に抗議活動をしたり、広島・長崎世界平和巡礼をするなど、長く世界の各地で平和と核廃絶を訴えてきたレイノルズ氏。その功績から1975年に広島市特別名誉市民の称号が贈られ、2011年にこの碑が建立されました。

44 平和記念ポスト

44. 平和記念ポスト

公園内に多くの慰霊碑がある彫刻家・圓鍔勝三氏の作。平和と友情をテーマに、腕をつなぎ書状を掲げた二人を描いた像です。昭和27年8月に広島市で開催された「第四回郵便友の会全国大会」を機に作られたもので、当初は広島駅前郵便局に設置されましたが、その後平和記念公園に移設されました。現在でも利用されているポストです。

45 平和の塔

平和の塔

平和の塔は1974年に広島市の「世界連邦都市宣言20周年」を記念して建てられました。世界連邦都市宣言とは、地方自治体が平和の尊さを訴え世界連邦運動に賛同を表すもので、広島市は1954年、全国5番目に宣言しました。一辺が4mの五角錐でゆるやかな渦を巻くユニークな形をしています。

46 広島市立高等女学校原爆慰霊碑

広島市立高等女学校(現在の広島市立舟入高校)では爆心地から約500mの材木町・木挽町に建物疎開作業にきていた1・2年生の541人と職員10人が原爆の犠牲となりました(他の場所も含め同校からは676名が死亡)。当初建てられた供養塔をあらためて、昭和23年に、学校の奉安殿跡の草山に建てられたのが現在の慰霊碑です。中央の犠牲となった少女が左右の友達に守られているデザインです。

47 旧天神町南組慰霊碑

現在は平和記念公園になっていますが、元安川の西側に縦に長く天神町という町があり大変賑わっていました。爆心地に極めて近く、原爆投下によって天神町内の家屋はほぼ全てが全壊全焼、人もほぼ100%が即死という悲惨な状態でした。天神町は現在の平和大橋付近で北組・南組に分かれていましたが、かつて南組があった場所に、昭和48年、南組の犠牲者を慰霊するための碑が建立されました。

F 元安川東岸1(元安橋の南側)

この周辺は「灯和の径(とわのみち)」として整備されました。元安橋東詰めのすぐ南にこのプレートが立っています。

48 広島郵便局職員殉職碑
49 平和祈念碑
50 原爆犠牲者建設労働者・職人之碑
51 平和の祈り 句碑
52 原爆犠牲ヒロシマの碑
53 広島瓦斯(株) 原爆犠牲者追憶之碑
54 石炭関係原爆殉職者慰霊碑

48 広島郵便局職員殉職碑

郵便職員の碑

旧広島郵便局は明治4年から広島の郵政の中心として業務を行っていましたが、爆心地である島病院のすぐそばにあったため、高熱と衝撃で建物は一瞬に壊滅、中にいた人たち288人も瞬時に亡くなったと思われます。犠牲となった人の多くは人手不足を補うための女学生や国民学校の生徒でした。慰霊と郵便局跡地を記憶に残すためこの碑が作られました。場所が少しわかりにくいのですが、ジュースなどを売っている店の裏(道路脇)になります。

49 平和祈念碑

平和祈念碑

平和祈念碑は、昭和57年に広島西ライオンズクラブと長崎西ライオンズクラブが姉妹縁組を締結したことを機に、昭和59年に建立されたもので、広島・長崎両市に同じデザインの碑が建てられています(長崎は長崎市平野町)。姉妹縁組締結の記念であるとともに、全人類の恒久平和のシンボルとして役立ちたいという願いが込められています。

50 原爆犠牲者建設労働者・職人之碑

原爆犠牲者建設労働者・職人之碑

この碑は、原爆の犠牲となられた建設労働者や職人の方およびそのご家族を慰霊し、また今後そういう犠牲者を出してはならないという誓いのもと、昭和63年8月5日、全国建設労働組合総連合会(全建総連)・広島県建設労働組合によって建立されたものです。全建総連は同年8月8日に長崎市にも慰霊碑を建立しました。

51 平和の祈り 句碑

昭和62年の建立。「人」を模った敷石の上に、人という形に組まれた石碑が建っており、中曽根康弘元総理の句「悲しみの夏雲にむけ鳩放つ」が刻まれています。この句は昭和58年の平和祈念式典に参列した中曽根氏がその時の気持ちを詠んだもので、原爆によって命を絶たれた人々の苦しみ痛みを後世に伝えたいという思いが込められたと言われています。

52 原爆犠牲ヒロシマの碑

原爆犠牲ヒロシマの碑

元安川の河床には、原爆によって破壊され表面が溶けた瓦が多数埋まっていました。昭和52年以降この一帯で平和学習を続けていた「広島高校生平和ゼミナール」の高校生たちは、この瓦を数千点にわたり掘り出し、犠牲になった方々の苦しみを重ねていました。そして昭和56年この周辺の美化工事に伴い、高校生たちはその瓦を使った慰霊碑を提案、碑文も高校生のものが選ばれて、昭和57年建立されたものです。上のブロンズ像は犠牲者の魂が表現されたものです。

53 広島瓦斯(株) 原爆犠牲者追憶之碑

広島瓦斯(株) 原爆犠牲者追憶之碑

この地にはかつて広島瓦斯(現在の広島ガス)本社がありました。爆心地からわずか250mで、地上3階・地下1階建ての鉄筋コンクリート及びレンガ造りの建物がこなごなに崩壊し、そこにいた社員さんや他県のガス会社役員の方々など35名が犠牲になりました。現在はその地に、高さ約2m直径約1mの黒御影石で円筒形の碑が作られ、その台の上にガス灯5基が灯っています。

54 石炭関係原爆殉職者慰霊碑

石炭職員慰霊碑

この碑は、石炭統制関係会社3社の職員の冥福を祈るために建立されたものです。3社の社員77人のうち1人を除いて全員が犠牲となりました。この慰霊碑は石地蔵の形で通称「原爆地蔵さん」と呼ばれています。このエリアの他の碑は全て元安川の川べりにありますが、この碑は元安川の向かいの公園(大手町第一公園)の中になります。道路を渡る必要があるのでご注意ください。

G 元安川東岸2(平和大橋の近辺)

平和大橋(東詰め)

55 広島県農業会原爆物故者慰霊碑

広島県農業会は昭和20年当時、現在慰霊碑のある場所に広島支所が、そして700m南東の広島市役所の南側に本所事務所がありました。原爆投下でどちらも廃虚と化し、当日勤務していた職員、支所長など80余名が一瞬にして犠牲となりました。碑は高さ1m、幅2mの黒みかげ石製で昭和45年に建立、裏面には後に原爆症で亡くなった方を含め83人の犠牲者のお名前が刻まれています。

56 毛髪碑

毛髪碑は原爆とは関係がなく、理容技術の向上発展と感謝の意を込めて、昭和35年に広島市理容師会によって建立されたものだそうです。であればこの記事に取り上げるのも違うかとも思うのですが、このエリアに並んでいますし、原爆で多数犠牲になってしまった女学生たちの髪を想像させる面もありますし、一緒にお参りしても良いのではと思います。

57 被爆動員学徒慰霊慈母観音像

石炭関係原爆殉職者慰霊碑

元安川に沿って南下し、平和大通りを越えてもう少し南に行ったところに観音様が立っています。これは、広島市内の旧制中学校・女学校21校の生徒の慰霊碑です。前年8月に発布された学徒勤労令により、昭和20年8月も広島市内では建物疎開作業に、国民学校高等科・中学校・女学校から8,200人以上の生徒が出動していて、被爆により約6,300人が亡くなりました。この碑には、犠牲になった生徒約4,000人の名前がネームプレートに刻まれ、築山に納められています。

主な建物・像をご説明

以下、平和記念公園内の主な建物や像について、簡単ですがご説明します。

原爆ドーム

原爆ドームは言うまでもなく、原爆の悲惨さを最も伝えるシンボル的な建造物で、ユネスコの世界遺産(文化遺産)です。もともとは「広島県産業奨励館」と言い、1915年(大正4年)に竣工した、広島県の多彩な物産を展示するための賑やかな場所でした。チェコ人の建築家ヤン・レッツェルの設計も素晴らしく、建物としての評価も高いものでした。地震などの問題もありますが、保存工事をしながら現状のまま保存を続けています。

原爆死没者慰霊碑

原爆死没者慰霊碑はこの平和記念公園の中心とも言える碑で、正式名称は「広島平和都市記念碑」と言います。
原爆やその後被爆の影響で亡くなられた方は「原爆死没者名簿」に書き加えられ、ここの中央にある石棺に収められます。

碑文の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は広島大学の故 雑賀忠義教授によるものです。「繰返しませぬ」の主語をめぐって多くの議論があったのは私も記憶していますが、「全ての人々の気持ちとして、戦争という過ちを繰り返しません と誓い、平和を願う言葉」という解釈で落ち着いています。

平和の灯

平和の灯は1964(昭和39)年8月1日に建立されました。設計は丹下健三氏。当日全国の12の宗派から寄せられた「宗教の火」と全国の工業地帯からの「産業の火」がここに移され、灯されました。以来現在に至るまでずっと燃え続けており、「世の中から核兵器が全て無くなるまで燃やし続ける」という思いで今後も灯され続けます。また、平和の灯の建立に合わせて周囲の池「平和の池」も拡張されました。

原爆の子の像

原爆の子の像は、原爆による白血病でわずか12歳で亡くなった佐々木禎子さんを悼み、全国からの募金によって作られました。禎子さんが折り鶴を折って回復を祈ったという話から、「千羽鶴の塔」とも呼ばれています。

この塔は平和のシンボルでもあり、禎子さんを含めた原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰める像ともなっています。

原爆の子の像には世界中から折り鶴が寄贈されています。贈られた折り鶴は像にかけられた後、このスペースで大切に保管されています。

レストハウス

レストハウスは、元は昭和4年に建った大正屋という呉服店の建物でした。爆心地からすぐの距離にもかかわらず残ったいわゆる「被爆建物」の一つです。ここで休憩できるのももちろんですが、観光案内所として担当の方もいらっっしゃいますし、いろいろなお土産物も売っています。
また、地下1階や3階の展示室では、生き残った方の証言の展示やこの施設のある旧中島町のジオラマがあったり、2階のカフェには被爆ピアノの展示があったりと、多くのことを体験し感じられる場所となっています。

平和記念資料館 本館・東館

平和記念資料館 本館
平和記念資料館 東館

平和記念資料館は、1955年(昭和30年)に開館して以来、1991年に改装があったくらいでしたが、2017年から2019年にかけて耐震補強を含め大きなリニューアルがされました。

入口があるのは東館です。東館には被爆前後の広島についての展示のほか、原爆投下の瞬間の広島市のCG、被爆者証言ビデオの視聴、核兵器の脅威についての展示などがあります。

本館は東館から渡り廊下を通って入る形になります。被爆者の遺品や、被爆の悲惨さを示す写真や絵などが多く展示されています。東館と比べると「被爆の実相」がこちらでより深く分かるという感じです。

土日にはいつも入口に長い列ができます。入館者の安全やきちんと見ていただくことを思えば仕方がないのかもしれませんが、もう少しなんとかできないものかな、と個人的には思います。

開館時間

3月~ 7月/8:30~18:00
8月 /8:30~19:00(8月5日、6日は20:00まで)
9月~11月/8:30~18:00
12月~ 2月/8:30~17:00

‌休館日

・12月30日・12月31日 ※ただし、情報資料室は12月29日から1月1日まで閉室

・展示入替期間:2月(中旬から3日間)

入館料

大人(大学生以上)200円(30人以上の場合、1人当たり160円)
高校生100円(20人以上の場合、無料)
中学生以下無料
キャッシュレス決済可

その他詳しいことは広島平和記念資料館公式サイト

国際会議場

ここは元々「広島市公会堂」という施設でしたが、その後1989年に現在のものに建て替えられて広島国際会議場と言うようになりました。約1500人が入れるフェニックスホール、国際会議ホール、大小会議室などがあり、世界各国の代表者との国際会議、コンサート、大小講演会などに使われています。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、2002年(平成14年)8月に、国立の施設としては初めて平和記念公園の中にできた施設です。設計は丹下健三氏。入口は地下1階で、施設は地下1階と地下2階になります。

地下1階には情報展示コーナー及び体験記閲覧室があり、地下2階には平和祈念・死没者追悼空間及び遺影コーナーが設けられています。

原爆投下による惨禍の事実を伝え、命の大切さや平和の尊さを語り継ぐため、死没者のお名前と遺影・体験記・証言ビデオなどを収集、整理、閲覧できるような活動と、企画展や被爆体験記の朗読会なども随時行われています。

開館時間

3月~ 7月830~1800
8月/830~1900(8月5日、6日は2000まで)
9月~11月/ 830~18:00
12月~ 2月8:30~17:00

‌休館日

12月30日・12月31日

入館料

無料

被爆遺構展示館

被爆遺構展示館は比較的新しい施設で、2022年3月に開館しました。「平和記念公園を訪れる人たちに、被爆遺構を通じて、この地にはかつて多くの人が暮らす町が存在し、その日常が一発の原子爆弾により一瞬にして奪われたことを知ってもらいたい」という思いを基に、広島市によって整備されました。
隣家との境の石材、生活排水が流れていただろう側溝、炭化した畳のレプリカなど、実際のものや劣化するものはレプリカがそのまま露出展示されているので、その時の生活や被爆の状況が非常にリアルに伝わってきます。平和記念資料館とともにこちらもどうぞご覧ください。

開館時間

3月~ 7月830~1800
8月/830~1900(8月5日、6日は2000まで)
9月~11月/ 830~18:00
12月~ 2月8:30~17:00

‌休館日

12月30日・12月31日

入館料

無料

終わりに

広島平和記念公園の中と周辺にある、慰霊碑、慰霊塔、慰霊像の場所と説明、そして主な施設の説明などをしてきました。

やはりこの場所にいると、「平和」とか「日常」という言葉が頭の中に広がります。

中学生・高校生の皆さん、ご家族連れ、海外からの皆さん、いろいろな方が来られていますが、皆さんそれぞれの胸に平和ということがあらためて刻まれることと思います。

ぜひあなたもお越しください。そして平和とは、戦争とは、日常とは何か、考えてみていただければと思います。


当ブログの広島関連記事を一覧にしました。ここから広島の観光スポットほか各記事に飛べますので、よろしければご覧ください。

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