あなたは2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』をご覧になったでしょうか。
私は日本の歴史に触れるのが好きで、特に幕末の話は本当に大好きです。
『花燃ゆ』は、激動の幕末を描きつつ、当時の志士たちに大きな影響を与えた山口県萩の教育者、吉田松陰とその妹・文を描いたドラマです。私は大変面白く毎回観ておりました。
ご存知の方も多いと思いますが、吉田松陰は、幕末のころ、生家で叔父・玉木文之進が設立した松下村塾という私塾で多くの志士たちを教えた教育者です。
松陰は安政の大獄でわずか29歳で刑死してしまいますが、それまでに高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文など、そうそうたる人々を排出し、激動の明治維新の影の立役者とも言えます。
吉田松蔭の萩市と私が生まれ育った広島市とは少し離れていますが、隣の県ですし、以前から大変身近に感じています。
松陰先生はたくさんの名言を残していますが、その中から10ほど選んでみました。意味でわからないものは調べた上で、私なりに感じたことを加えさせてもらいました。
どうぞご一緒に味わってみてください。
(一部、わかりやすいよう、原文の漢字をかなにしたりしている箇所がありますがご了承ください。また、私の解釈が間違っていたらどうぞコメントでご指摘ください)
おまけ情報として 最後に松陰先生の雑学も少し書いています。
吉田松陰の名言 おすすめ10
至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり
松陰の言葉の中では、次の「親思う…」とともに最も有名なものの一つ。
「至誠」は「せいいっぱいの誠意を尽くす」というような意味です。
精いっぱいの誠意で相手に接すれば、それで心を動かされない人はいない。すなわち、人を動かそうと思ったら、まごころを持って、精いっぱいの心で接するべし、ということですね。
元々は孟子の言葉から来ているそうですが、松陰自身、その信念で人と接した人と言われています。
まごころで接すること、誠実であること・・確かに大事なことですよね。
親思う 心にまさる親心 今日のおとづれ 何と聞くらん
これは安政の大獄で捕らえられ、刑場で亡くなる前に詠んだ「辞世の句」です。
自分がどんなに親を思っているといっても、親が子どもを思う気持ちははるかに大きいものだ。私が死んだと聞いて、親はどんなに悲しむだろう・・・
そんな意味です。
私自身は子どもがいないので「親心はそういうものだよ」と言えませんが、亡くなった自分の両親を思うと、そうなのだろうな・・・と思います。
親が子どもに向ける愛情というのは本当に深い深いものなのでしょうね。
かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
これは、安政の大獄で捕まって、入牢するために護送されている時に詠んだ歌とされています。そう思うと、非常に重みを感じますね。
こういう風に動けば、捕らえられて死刑になるかもしれない、でもそういう危険があろうとも、国を愛する気持ちからそうせざるを得なかった
そういう気持ちだったのでしょうか。長く生きることより、短くても世のため人のために生きた、というのがすごいですね。
国家とともにという志がないならば、人ではないのである
これは文字通りの意味でしょう。松陰は国の行く末を案じ、当時の長州藩の志士たちに国家のことを説いた人ですから、特に「国のために」という思いが強かったのでしょう。
自らもそうですし弟子たちにも「自分は国とともにある」という心を強く持つことを大事にせよと教えたのだと思います。
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし
これも文字通りですね。逆から読めば「成功をおさめるためには計画が必要、計画をするためには理想が必要、理想を持つには夢が必要」とも読めます。
なにごともまず夢を理想を持つことが大事、というのは今にも本当に通じますね。
宜しく先ず一事より一日より始むべし
何かをやろうと志を立てたら、まずその一つに集中し始めなさい。そして思いついたその日からやり始めなさい。
そんな意味かと思います。
つい不安にかられて一歩が進めないとか、いろんなことに目移りしてしまうとか思う時に、この言葉を思い出すといいですね。
死して不朽の見込みあれば、いつでも死すべし
生きて大業の見込みあれば、いつでも生くべし
意味としては、
仮に自分が死ぬとしても、自分がやったことが後世まで残る(価値のある)ことであればいつ死んでも構わない。でも、もし生きのびて大きな結果が出せるという見込みがあるなら、とにかく生き続けることだ。
という感じでしょう。
幕末の混乱期に、命を懸けてことを成そうとする松陰の強い意志、強い誓いのようなものを感じます。
何か大きいことをしようと思ったら、そのくらいの強い気持ちでかからなくてはいけませんね。
人を信ずることはもちろん 遥かに人を疑うことに勝っている
これに続けて「私は人を信じすぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑いすぎる欠点はないようにしたい」と語っています。
いわゆる「性善説・性悪説」という話とも通じそうですが、
「人を疑う」ことより「人を信じる」ことの方が実際難しいが、でも信じていった方が強い。そして物事がうまくいく。
そんなことを表わしたのかなと思います。
人を信じようとする吉田松陰の人柄が感じられますね。
けだし学の道たる、おのれが才能をひけらかして人を屈するゆえんにあらず。人を教育して同じく善に帰せんと欲するゆえんなり
学問というものは、自分が才能があるとみせびらかし、他人を屈服させるためのものではない。人を教え育てて、一緒に良い人になろうとすることである。
「教える」ということの本質をずばっと言っている気がします。自分の能力をひけらかし、強引に従わせようとする人も少なくないような・・・
およそ学をなすの要はおのが為にするあり。
おのが為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり
ここで言う「人の為にする」は、今でいう「人のためになるような」という意味ではなく、「人の師になろうとする」とか「人に教えようとするだけの」というような意味のようです。
学問というのは自分を磨き高めるためにするものです。そういう学問は、志の高い人の学問です。自分を磨くことを忘れて、人の師になろうとするだけの学問、ただ答えるだけの学問は、つまらない人の学問です。
常に「自分磨き」を考えていた方なんですね。私も振り返って反省をします。(^^ゞ
おまけ情報〜吉田松陰に関する雑学
「僕」を日本で最初に使ったのは吉田松陰?
男性が普通に使う「僕」。私も良く使います。これを最初に使ったのが吉田松陰だという説があります。
公のために尽くす「公僕」の「僕」という言葉を、自分は「無私の尽くす人間である」という意味で弟子との手紙の中で「僕」と使ったとか。
それを弟子たちが真似て使い出して徐々に広まったそうですが、松陰の人となりを感じさせるエピソードですね。
松陰神社
吉田松陰を祀った神社は、松陰の生まれた山口県萩市と、お墓のある東京都世田谷区の2ヵ所にあります。
東京の松陰神社
■東京都世田谷区若林4丁目35-1 / 東急世田谷線「松陰神社前」駅下車
ここはかつて長州藩主の別邸だった場所で、松陰が安政の大獄で刑死した4年後、高杉晋作らの手で墓所が作られ、明治になってから神社が建てられたたものです。
萩の松陰神社
■山口県萩市椿東1537
明治23年、松陰の実家の敷地内に、実の兄である杉民治氏が建てたのが元だと言われています。ここにはかつての松下村塾が現存している他、旧宅や吉田松陰歴史館があり、萩市では最も尊敬を集める神社となっています。
松陰先生
地元萩市では、今も幼稚園から小学校中学校どこでも、親しみと尊敬を込めて「松陰先生」と呼び、その教えと生き方を学んでいます。松陰の言葉を朗唱し、深く尊敬を受けるその様子は、吉田松陰という人の素晴らしさと、萩の皆さんの深い思いを感じます。
終わりに
『花燃ゆ』に描かれた吉田松陰はとても人間臭く、法を破ったりするような破天荒なところもありながら、ひたすら日本の将来を考え、そこに猛進した人でした。
短い人生でしたが、激動の中に国を思い人を思い駆け抜けた偉人の言葉は、今の時代を生きる自分にもとても響くと思いました。心していきたいです。(^^)
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